1956-11-20 第25回国会 参議院 議院運営委員会 第7号
お手元の履歴書で御承知のように、塚越君は、大学卒業後、大蔵省に入り、司税官、銀行検査官、大蔵事務官、預金部資金局書記官、国民貯蓄奨励局事務官、営繕管財局誤記官及び大蔵書記官を歴任、この間、本省及び外局の各課長を命ぜられましたが、昭和十七年六月、専売局理事に任ぜられ、東京地方専売局長となり、次いで、広島及び名古屋の各財務局長を経て、同二十年九月内蔵頭に任ぜられ、同二十三年四月皇室経済主管となり、同二十五年二月退官
お手元の履歴書で御承知のように、塚越君は、大学卒業後、大蔵省に入り、司税官、銀行検査官、大蔵事務官、預金部資金局書記官、国民貯蓄奨励局事務官、営繕管財局誤記官及び大蔵書記官を歴任、この間、本省及び外局の各課長を命ぜられましたが、昭和十七年六月、専売局理事に任ぜられ、東京地方専売局長となり、次いで、広島及び名古屋の各財務局長を経て、同二十年九月内蔵頭に任ぜられ、同二十三年四月皇室経済主管となり、同二十五年二月退官
お手元の履歴書で御承知のように塚越君は、大学卒業後大蔵省に入り、司税官として大分、長崎等の各税務署長に補せられた後、銀行検査官、大蔵事務官、預金部資金局書記官、国民貯蓄奨励局事務官、営繕管財局書記官及び大蔵書紀官を歴任、この間、本省及び外局の各課長を命ぜられましたが、昭和十七年六月専売局理事に任ぜられ東京地方専売局長となり、ついで広島及び名古屋の各財務局長を経て同二十年九月内蔵頭に任ぜられ同二十三年四月皇室経済主管
白根君は、御手許の履歴書で御承知のように、大学卒業後神奈川県庁及び乕信部内に勤務して後宮内省に入り、宮内官として三十有余年の永きに亘り在職し、その間宮内書記官、宮内大臣秘書官、内匠頭、内蔵頭、宮内次官等を歴任し、昭和二十六年中央更生保護委員会委員となり翌二十七年八月中央更生保護審査会委員に任命されたものでありまして、更生保護事業について経験と識見を有するものであります。
そうして、内蔵寮の中のことは、やはり内蔵頭があり、主計課長があつて、多分その主計課長、内蔵寮の方で保管しておられたと思います。私は総務課におつたものですから、その点については何ら関知しておりません。
お手許の履歴書で御承知の通り、白根君は、明治四十四年七月、大学卒業後、神奈川県庁及び逓信部内に勤務して後、宮内省に入り、宮内書記官、宮内大臣秘書官、内匠頭、内蔵頭、宮内次官等を歴任、昭和二十年十月より同二十二年五月まで貴族院議員の職にあり、昭和二十六年六月から本年七月まで中央更生保護委員会委員として在職しておつた者であります。
若しそういうことをするといたしますれば、もう一つの例を申上げては非常に恐縮なのでありますが、曾つて皇室費というものがございまして、宮内省で別途皇室会計をやつておられたのでありますが、そのときに皇室費の一般会計からの支出のやり方は大蔵大臣が宮内省の内蔵頭に小切手を渡したのです、毎四半期……。そこでまあ支出は国の金が支出されまして、会計検査院はその段階まで会計検査をする。
白根松介君は明治四十四年東京帝国大学を卒業後、宮内大臣秘書官、内匠頭、内蔵頭、宮内次官等を経まして、昭和二十年十月貴族院議員に当選、昭和二十二年五月貴族院が廃止されるまで在職していた者であります。この間恩賜財団慶福会監事、同愛育会評議員等の社会団体の役員を兼ね、財団法人司法保護協会理事、同副会長、日本社会事業協会理事等を歴任して来た者であります。
中川 幸平君 中山 壽彦君 大島 定吉君 櫻内 辰郎君 河井 彌八君 小宮山常吉君 島津 忠彦岩 町上 嘉君 國務大臣 國 務 大 臣 齋藤 隆夫君 政府委員 宮内府次長 加藤 進君 宮内府事務官 (内蔵頭